> 《6》
《6》
「泣いたのよ、あなたが辞めたって聞いて。
 半分あなたに会いたくて、あの店に通っていたんだから……」
 屋上で風に吹かれながら、彼女が微笑む。それまでアップにしていた髪の毛をほどき、たおやかに風になびかせている。
「自分で言うのも変だけど……お嬢さんだったのよ、私。
 親の決めた縁談にも疑問一つ持たなくて、それも私の人生なのかなって
思っていた。
 ……でもあの店に通ううちに、それは間違いだって事に気付いたの。
 恋愛一つせずに終わる人生なんて虚しいでしょ?」
「……マスターの言う通りになっちゃったな」
 僕は半ば照れながら頭をかいた。冗談混じりに言っていた、マスターのセリフを思い出したからだ。
 その僕の様子に彼女はふふっと笑った。そして、フェンス越しの空を見上げる。
「あの店であなたに会うのが嬉しくて……
 そしてこの気持ちが恋なんだって気付いて、それからは海ばかり見ていたわ。
 どうしようもない想いを悟られたくはなかったから」
「あの雨の日……あなたに抱かれたくてあの場所に行ったのかもね、私」
 その時の事を思い出したのか、彼女の頬がほのかに紅く染まる。
 僕も胸の高まりを押さえきれずにいた。
「私が泣いていたらマスターが言ったの。
 『自分に正直になりなさい』って……
 たとえハッピーエンドにならなくても、その恋はきっと自分のためになるから、
 気持ちに嘘をついちゃいけない……
 ……その言葉で、眠っていた私の自立心がようやく目覚めて」
「共犯だな、マスターも……自分だって人のことは言えないくせに」
「それにしてもよっぽど紅茶に縁があるのね、私達。
 巡り逢ったのもまた逢えたのも……
 あなたが紅茶の担当で会社に来た時、私吹き出しちゃったわ」
 彼女のそのイタズラっぽい表情に、これまでの経過を思い重ねて、なんだか僕はばつが悪くなってしまった。
「黙っていたなんて意地が悪いな……正直言って気がつかなかったよ、
 二月ほとんど毎日通ってきていたのに」
「私のこと忘れていたら嫌だったし……楽しかったのよ、あなたを見ているのが。
 そして帰る時に呟くの。また明日きっと、お逢いしましょうって……」
「でもあの時の花びら、ずっと大事に持っていてくれたから……だから私」
 もうそれ以上の言葉はいらなかった。僕はそっと彼女の頬に触れ、唇を重ね、抱きしめた。
 ……彼女の髪の香りが、眠っていた記憶を甦らせた。
 あのカフェテラスで見た空と共に。


 それから何回か僕はあのカフェテラスを訪れている。あのマスターもかわいい嫁さんをもらっていて、今では3人の子供のパパになった。
「……そうすると、俺が恋のキューピッドになる訳だな」
 変わらず、のんびりした口調で語る。頷きながら、僕は海に目を向ける。
 白いサンドレスを翻して、彼女は微笑む。……僕達の娘を連れて。


 出逢った頃と同じ風が、海岸を吹き渡っていった。

【End off story.】
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