> 《5》
《5》
 三年後、僕は外商部の紅茶部門を担当していた。さんざん勉強した甲斐があって、大分重要な仕事も任されるようになってきた。
 今度売り込む会社も、小さなところだけれども何軒もの百貨店に出店をもつところで、ここと取引が成立すれば万々歳だ。
 それだけに、僕は熱心にその会社に通った。


「……この間お忘れになったでしょう、手帳」
 いよいよ本契約という日、僕が書類を揃え社長を待っていたとき。
 顔馴染みになった社長付きの秘書が、黒い手帳を持って微笑んでいた。
 眼鏡の奧の瞳が、育ちの良さを物語る。
「すいません、探していたんです」
「駄目ですよ、大事なもの落とされては」
 手渡される時、手帳の間から栞(しおり)が落ちた。
「あら……綺麗な押し花」
 秘書嬢はその栞を拾い、ラミネート加工してある花びらをしげしげと見つめた。
「恥ずかしいな……見られたか」
「何か想い出でもあるんですか、その花に」
「……失恋した想い出がね」
 慌てて手帳をしまう僕を見て、彼女がくすくすと笑う。
「待たせたわね、先の仕事が押していて」
 ここの女社長がドアを勢いよく開け、部屋へと入ってくる。あいかわらず豪快な人だ。


 無事契約が終わり、僕は汗を拭きふき書類を鞄にしまう。そして秘書嬢が出してくれた紅茶に手をつけようとした。
「いつもはコーヒーなのに……
 紅茶扱っている人なんだから、飲み飽きているでしょう」
 社長がカップを持ち、一口ふくむ。秘書嬢はかけていた眼鏡を外した。
「見本でいただいたハーブティがおいしかったものですから……
 こういう飲み方もあるんですのよ、社長」
 その声の調子に、僕は思わず彼女の顔を見つめた。

 ……紅い花びらが浮かんだ、ハーブティ。
 そしてその花びらの色に似た紅い唇。ゆっくり、瞳が微笑んだ。

 社長も意味有りげな笑いを浮かべている。
「変な娘(こ)でしょう、前にも気まぐれで、結婚キャンセルしちゃってさ。
 日取りまで決まっていたのに……
 親が大騒ぎするから、私が引き取って仕事の手伝いさせているのよ。
 どう、恋人がいなかったらこの娘あたり」
 社長は僕の反応を見て半ば面白がっているだったけれども、彼女はテーブルの傍らであの時のままの微笑みを浮かべていた。
 僕は考えをまとめることができずに、ただハーブティをすするばかりだった。
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