> 《3》
《3》
 八月いっぱいでアルバイトが終わる。
 彼女の姿を見ていられるのもあと一日。そう思うと、この気持ちを…………好きだという想いを伝えたいという欲にかられた。
 日課のように運んでいたティカップをテーブルに置き、意を決して彼女に声をかけようとした。
「あの……」
「何?」
 彼女の深い色の瞳が、僕を射すくめる。とたん、用意していたはずの言葉を失ってしまった。
「何でもないです……すいません」
 訝(いぶか)しげな彼女の視線に狼狽し、僕は顔を伏せた。
 代金を受け取り、慌ててキッチンに戻る。一部始終を見ていたマスターが、仕方ないな、という表情で立っていた。
「……帰り際まで待てよ。想いを伝えるだけじゃ、罪はない」
 僕は何も言えず、立ち尽くすばかりだった。


 そろそろ五時になろうという頃、にわかに空がかき曇ってきた。
「こりゃ一雨来るな、テーブルを片付け始めてくれ」
 マスターの声がかかり、ぼくはテラスへ飛び出した。
 埃の匂いが雨を感じさせ、否が応でも焦らせる。
 テラスの折りたたみテーブルを一つ、また一つと片付けるうちに、雨粒が落ちてくる。同時に、雷が鳴り始めた。慌てて物置を開け、テーブルを運び込む。土砂降りの雨の音にふと外に目をやると、彼女が帽子を押さえて物置へと飛び込んできた。
「……雷、嫌いなの。少しここにいさせて」
 雷鳴が轟くたび、肩を震わせる。物置の屋根をたたく雨音が、ひどくなる。ひときわ明るく稲妻が光り、大音響とともに衝撃が来た。
 近くに落ちたなと思った時……
白い帽子が落ち、僕の胸の中に彼女がいた。
 彼女の息遣いが間近に感じられる。また雷鳴が轟いた時、僕は彼女を抱きしめていた。

 どのくらいそのままでいただろう。
 腕の中で彼女の柔らかい体を感じ、彼女の髪の甘い香りが鼻をくすぐる。我に帰り、僕は抱きしめていた手を緩めた。
「……すいません」
 彼女は何も言わず、少し涙を浮かべた瞳で僕を見つめる。微かに唇が動く。
『……キスして……』
 自分の耳を疑う間もなく、唇を重ねていた。

 理性なんか、とうの昔に失せていた。
 ……このまま、時を止めてしまえれば。
 だけど彼女の左手の指環が目に入った時、また理性が甦る。
 体を離した後、彼女は大きく息をつく。
「私……」
 後ろめたさもあったのだろう、切なそうな彼女の瞳が、見るに忍びなかった。
「傘を持ってきます……待っていて下さい」
 彼女と目を合わせないように、僕は雨の中へ飛び出した。
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